—―コンコン病室のドアがノックされた。「あら、誰かしらね? 看護師さんかしら?」明日香がPCから目を上げた。「うん? でもさっき来たばかりだしな……」すると外から声が聞こえた。「俺だ、琢磨だ」「何だ、琢磨か。中に入れよ」翔に言われて琢磨はドアを開けて中へ入って来たのだが……。「な、何だ? 琢磨。お前随分機嫌が悪そうだが……ひょっとして朱莉さんと何かあったのか?」「あら、そうなの? 琢磨」明日香は何処となく嬉しそうな笑みを浮かべて琢磨を見る。「違う! そんなんじゃない! 明日香ちゃんに頼まれた買い物を朱莉さんが揃えたから今それを届けに来ただけだ!」琢磨は乱暴に言うと、持って来たキャリーカートを2人の前に見せた。「こ、これは……」翔が言い淀んだ。「あら。よくこんなに沢山買い揃える事が出来たわね。別に入院期間中に揃えてくれなくても良かったのに」明日香の言葉に琢磨はイラついた様子で反論した。「明日香ちゃん、朱莉さんに頼む時そんな言い方はしていなかったぞ?」「あら、そうだったかしら?」「しかし……明日香……。こんなに沢山買い物を朱莉さんに頼んでいたのか?」翔の言葉に琢磨は目を見開いた。「何だって? おい、翔。お前は明日香ちゃんが朱莉さんにどれだけ買い物を頼んでいたのか知らなかったのか!?」「あ、ああ……知っていたらお前を買い物に付き合わせていたよ。さっきの仕事は今夜中に終わらせればいいだけの話だし……」そんな2人のやり取りを明日香は知らんぷりしてPCを見ている。「明日香ちゃん、まるで他人事のような態度を取っているけど買い物の中身を確認しなくていいのか?」怒りを抑えた口調で琢磨が尋ねる。「ええ、別に必要無いわ」「「何だって?」」琢磨と翔が声を揃えた。「だって、適当に雑誌で見て選んだだけですもの。いちいち自分が何を買い物リストに書いたのかも覚えていないわ」「な、何だって……?」琢磨は明日香を睨み付けた。「何よ。そんな目で人のことを見て」「お、おい。琢磨。明日香は絶対安静の身なんだ。あんまり怯えさせるなよ。だけど少しは買い物を頼まれた朱莉さんのことを考えてあげたらどうだ? あれだけの買い物は大変だったと思うぞ?」翔が明日香に問いかけた。「そうねぇ。実際に集めるとこんなに量が多かったのね。パッケージの分で傘増し
「い、いや。だって事実そうだろう? あの京極という男のせいじゃないのか? 大体最近のお前少しおかしいぞ? 以前のお前ならもっと冷静沈着な男だったじゃないか」翔の言葉は、増々琢磨を苛立たせた。「そうかい。それは誉め言葉だと受け取っておくよ。ようするに今の俺は以前より人間味が出て来たってことだろう? だがな、これだけは言っておく。これ以上お前達の我儘身勝手に朱莉さんを巻き込むな!沖縄までわざわざ呼びつけたんだから少しは彼女を解放してやるんだな?」琢磨が2人を交互に見ながら言うが、翔は反論した。「いや。それは出来ない。そもそも朱莉さんを沖縄に呼んだのは明日香の側にいて貰う為だ。何かあった時、逐一朱莉さんには明日香の様子を報告してもらいたいし、身の回りの世話だって……」「だったら家政婦でも何でも雇えばいいだろう?」「いずれはそうするつもりだ。口の堅い家政婦が見つかればそれでいい。だけどそれまでは朱莉さんに明日香を頼むしか無いんだよ。そうだろう、明日香?」「う~ん……。でもあまり拘束したら朱莉さん気の毒じゃないかしら? 程々で私は構わないけど?」「ほ、程々って……それを誰に判断させるんだよ? 言っておくが朱莉さんにはそんな判断出来っこないからな? とにかく翔、それに明日香ちゃん! 朱莉さんをこき使うのはやめろ!」琢磨は朱莉を守る為に必死だった。しかし……。「いや……そもそも朱莉さんにはそれなりの報酬を支払ってるんだ。だからこれから先も少々の無理は聞いて貰わないと……その為の契約婚なんだからな」その時――ドサッ!!病室の外で何か物が落ちる音が聞こえた。「何だ?」琢磨は病室のドアを開けて息を飲んだ。「あ……朱莉……さん……」(そんな……嘘だろう? 一体いつから朱莉さんは俺達の話を聞いていたんだ?)「あ、あの……私……まだ頼まれた買い物を別に自分の鞄に入れておいて……そ、それを届けに……」朱莉は眼を見開いて、病室にいる翔と明日香の姿を見た。その姿は…まるで怯えているようだった。「あ、朱莉さん……今のは……!」流石にばつが悪いと思ったのか、翔が声をかけた時。「す、すみませんでした。これ……お願いします!」朱莉は落してしまった包みを慌てて拾い上げ、琢磨に押し付けるように渡すと逃げるように立ち去って行く。「朱莉さん!」琢磨の呼びかけに
琢磨と朱莉は「めんそーれ」と言う沖縄料理を出す居酒屋に来ていた。「「……」」2人はお座敷席でお互い無言で向かい合って座り、注文を取りに来た若い男性店員もバツが悪そうに注文待ちをしている。「……朱莉さん。注文…・・・どうする?」琢磨がメニューを差し出しながら朱莉に勧めた。「そ……。ではグレープフルーツサワーと……このタコライスでお願いします」「うん。そうだね。このタコライスは沖縄のソウルフードと言われてるからね。それじゃ、俺は生ビールと海ぶどうの三杯酢……それとゴーヤチャンプルー。あとラフテーをお願いします」「はい、かしこまりしました」店員はほっとしたようにメニューを取ると、そそくさと立ち去って行った。「九条さん、今のメニュー、全部沖縄料理ですか? ゴーヤチャンプルーは聞いたことがありますけど後は全部初耳です」「そうかい? それじゃメニューが届いたら一緒に食べてみようよ。気に入ってもらえるといいけどね」ようやく朱莉の方から話しかけてくれたので、琢磨は笑みを浮かべた。 あの後、朱莉は琢磨に縋りついて20分近く声も出さずにすすり泣いていた。その様子があまりにも哀れで、琢磨は翔と明日香に激しい怒りを感じずにはいられなかった。(くそっ……! 朱莉さんをあんなに泣かして……最近の明日香ちゃんは以前に比べて少しはマシになってきたが、そこへいくと翔のあの態度は一体何なんだ!? 絶対にいずれ朱莉さんに謝罪させてやる!)先程のことを思い返していると朱莉が話しかけてきた。「九条さん……」「どうしたんだい?」琢磨は出来るだけ優しい声で朱莉に返事をした。せめて翔が朱莉に親切に出来ないなら、自分だけでも朱莉に優しく接してあげようと思ったからだ。「いつもいつも……九条さんの前で子供の様に泣いたりして呆れてしまいますよね? 本当にすみません。……自分がこんなに泣き虫だったなんて気付きませんでした。本当にお恥ずかしい限りです」朱莉は頭を下げた。「朱莉さん、それは……」(それは翔のことが好きだからだろう? 好きな相手に冷たい言葉を投げつけられるから、それだけ辛く悲しく感じてしまうんじゃないのか?)しかし、琢磨はその台詞を口にすることなく言った。「別に気にすることはないよ。いや、むしろ他の男の前で泣かれるくらいなら……俺の前でだけ泣いてくれた方が嬉しいか
それから2時間後——「朱莉さん、朱莉さん。大丈夫かい?」琢磨は壁に寄りかかり、うつらうつらしている朱莉に声をかけた。「は? はい……? だ、大丈夫です……」朱莉はすっかり酔ってしまっていた。(まさか、チューハイ1杯とカクテル1杯で酔ってしまうとは……まるでザルのような明日香ちゃんとは大違いだな……)琢磨は会計を済ませると、朱莉を何とか立たせ、背中に背負うと居酒屋を後にした。通行人たちからはジロジロ妙な目で見られたが、琢磨は気にも留めなかった。(どうせ、ここは沖縄だ。俺の知り合いだっていないんだし……構うものか)朱莉を背負ったままタクシー乗り場に行ってみると、丁度運がいい事に客待ちのタクシーが1台停車していた。そこで琢磨は朱莉を抱えるように乗り込むと運転手に朱莉が宿泊中のホテルの名を告げた。「……」 自分の肩に朱莉をもたれさせるように座らせ、琢磨は夜の沖縄の町を眺めていた。国際通りには大勢の観光客と思しき人々が沢山歩いている。それを見ながら琢磨は思った。(これから朱莉さんは何カ月も沖縄で1人暮らしをすることになるんだ……。出来れば俺も朱莉さんの傍にいてやりたいけど……)ちらりと自分の肩に寄りかかって眠っている朱莉を見つめた。(だけど、朱莉さんが望んでいるのは俺じゃない……)それを考えると琢磨の胸はわけの分からない痛みに襲われるのだった――「ありがとうございます」琢磨はタクシーを降りるとお金を支払い、朱莉を背負ったまま宿泊しているホテルのフロントに行った。そこで事情を話し、宿泊している部屋の鍵を預かると琢磨は朱莉のいる部屋へ足を向けた。「……ここが朱莉さんの宿泊する部屋か……」そこそこのレベルのホテルなのかもしれないが、自分の宿泊している部屋と見比べると罪悪感を抱く。「俺はあんなすごい部屋に宿泊しているのに、朱莉さんは……」とりあえず、朱莉を寝かせなければと思い、ベッドの布団をめくると、そこに朱莉を横たえた。それでも朱莉はちっとも起きる気配は無い。普段大人びて見える朱莉だが、こうして眠っている姿はまるで子供の様にも見える。「フフ……可愛らしいな」琢磨は次の瞬間驚いた。「……一体俺は何を……?」その直後、朱莉がうなり始めた。「う~ん……」「朱莉さん? 目が覚めたのか?」しかし朱里からは返事が無いが、何か呟いている。琢
翌朝―― 目を覚ました朱莉は、自分がいつの間にか滞在先のホテルのベッドの上で眠っていることに驚いた。慌てて飛び起き、昨夜のことを思い返してみる。「え……と。昨夜は確か九条さんと居酒屋へ行って……」グレープフルーツサワーを飲んだところまでは記憶がある。けれど、その後の記憶が朱莉には全く無かった。「ひょとして私酔っぱらって……お店で寝ちゃった……?」そう言えば何となく記憶がある。琢磨に背負われてタクシーに乗った曖昧な記憶が……。「た、大変! 九条さんにとんでもない迷惑をかけちゃった!」部屋の時計を見ると6時過ぎだった。「この時間なら、まだ寝てるかも……」朱莉はキャリーケースから着替えを取り出すとすぐにバスルームへ向いシャワーを浴び、部屋へ戻るとスマホを手に取った。(7時になったら九条さんにメッセージをいれよう)朱莉はまず先に母親にメッセージを書いた。『お母さん、おはよう。今朝の具合はどう? 昨日はメッセージ送れなくてごめんね。昨日お店で綺麗な絵ハガキを見つけて買ったから、手紙出すね』送信すると、ベッドを直してカーテンを開ける。「私、本当に沖縄に来ちゃったんだ……」朱莉はポツリと呟いた――**** その頃琢磨はもう起きており、翔から届いたメッセージを読んでいた。そこには朱莉のことを心配する内容が書かれていたのだが……。「全く心配しているなら初めからあんな台詞言うなよ! 時々朱莉さんを労わるような言葉を言っておきながら、結局最後は冷たい言動を取るからよけい朱莉さんを傷付けているってことにあいつは気付いてないのか?」朝からイライラした気分になった琢磨は部屋に備え付けのコーヒーメーカでブラックコーヒーを淹れながら呟いた。「朱莉さんはもう起きているかな? 起きていればホテルに迎えに行ってここのホテルの朝食を一緒に食べれるんだが……。よし、試しに声をかけてみるか」琢磨はスマホを握りしめると、朱莉に電話をかけた。****丁度その頃、朱莉はネットで通信教育を受けていた時、琢磨から着信が入ってきた。「え? 九条さん?」朱莉は慌てて電話に出た。「もしもし、おはようございます。九条さん」『お早う、朱莉さん。良かった。起きていたんだね。まだ寝ていたらどうしようかと思っていたんだ』「いえ、もう6時には起きていましたから。それで……」朱
「す、すごい……。こんな立派なホテル初めて見ます」ホテルに到着した朱莉はその豪華な造りに目を見開いた。それを見た琢磨が申し訳なさそうに謝る。「朱莉さん、ごめん。俺だけこんな立派な部屋へ泊って。何なら今夜は朱莉さんと俺の宿泊先を交換してもいいよ?」レストランに向って歩きながら琢磨が言った。「な、何言ってるんですか? そんなとんでもないですよ。私は今のホテルで十分満足しています。だから全然気にされなくて大丈夫ですからね?」「そうかい?」琢磨は少し目を伏せた――「ほら、ここで朝食を取るんだよ」琢磨に案内されたレストランはとても広く、天井からは豪華なシャンデリアが吊り下げらていた。「な、何だか気後れしてしまいます。私、こんなカジュアルな服装をしているのに」朱莉は自分の服装を見直しながら言った。朱莉の今日の服装は柄の入った白いTシャツにデニムのロングスカートにサンダルとういうスタイルである。「ハハハ。そんな事無いよ、良く似合ってる。それに俺だってポロシャツ姿だ。他のお客も似たような服装をしているだろう?」「言われてみれば確かにそうですね」「よし、それじゃここのテーブル席にしようか?」琢磨は窓側の座席を示した。「はい、そうですね」朱莉が座ろうとしたとき。「朱莉さん。ここビュッフェスタイルなんだ。だから好きなメニューを選んで取って来るんだよ。俺はここで待っているから先に行って来るといいよ」「え? でもそれでは……」「朝、部屋でコーヒーを飲んでるからそれ程お腹が空いてるわけじゃないんだよ」琢磨の言葉に朱莉は納得した。「そうですか? それではお先に行ってきますね」 カウンターには様々なおいしそうな料理が並び、どれも目移りするものばかりだった。取りあえず琢磨を待たせてはいけないと思った朱莉は、パンに卵料理、サラダにスープ、ヨーグルトを選んで琢磨の元へ戻りかけた時、2人の女性が琢磨の側で話をしてる姿が目に止まった。(え? 九条さん? あの女の人達は誰だろう? ひょっとして知り合いなのかな?)席に戻っていいのかどうか朱莉は迷って立ち止まっていると、琢磨が朱莉に向って手を振ってきた。「朱莉、こっちだ!」(え?? あ、朱莉!?)いきなり呼び捨てされ、笑顔で呼ばれたので朱莉はすっかり面食らってしまった。そして同時に感じたのは2人の女性の自分
朝食を食べ終えた2人は今琢磨の運転する車で病院へと向かっていた。「朱莉さん、さっきはごめん」琢磨が突然ポツリと言った。「え? さっき? 何のことですか?」朱莉は突然琢磨が謝罪してきたので、振り返った。「いや、レストランで突然朱莉さんの名前を呼び捨てしたり、彼女だって言ったりしたことだよ」「あ。あの事ですか? 別に謝らなくていいですよ。私は気にしていませんので。確かに少し驚きはしましたが、あの女性達の手前、ああいう言い方をしたのですよね?」「うん。まあ……そうなんだけどね」琢磨は歯切れが悪そうに返事をする。「だけど、やっぱり九条さんは女性にモテるんですね」「え? や、やっぱりって?」九条は狼狽えて朱莉を見た。「はい。九条さんは素敵な男の人ですからね。女性達から人気があって当然ですよね? やっぱり私の思った通りでした「朱莉さん……」朱莉から「素敵な男の人」と言われて琢磨は思わず赤面しそうになった。まさか朱莉が自分のことをそんな風に見てくれているとは思ってもいなかったからだ。しかし、そこでまた琢磨の胸に暗い影が落ちる。(それでも朱莉さんの好きな男は……翔なんだろう?)琢磨は窓の外を眺めている朱莉を横目でチラリと見た。朱莉の目に映すのは翔ではなく、自分だったらどんなにか良かったのに。自分だったら朱莉をあんな悲しい目に遭わせないのに。だが、琢磨は自分の気持ちを朱莉に告げることは出来ない。それが琢磨にはとても辛かった――**** 翔との待ち合わせは病院内に併設されたカフェだった。明日香は今検査を受けていると言うことで、カフェで待ち合わせをすることにしていたのだ。琢磨と朱莉がカフェに行くと既に翔は席に着いており、2人を見ると手を上げた。「おはようございます、翔さん」「おはよう、翔」「おはよう、琢磨。それに朱莉さん。その……昨日は本当にすまなかった」翔は申し訳なさげに朱莉に謝罪した。「翔!謝るなら最初からあんな酷い言い方をするなっ!」朱莉に謝る翔を激しく非難する琢磨。「九条さん……」そんな琢磨を朱莉が見つめる。「分かってる、琢磨の言う通りだよ。本当にごめん。明日香のことになると、俺はどうしても感情的になってしまうんだ」再び、翔は朱莉に頭を下げた。だが、翔はその行為すら朱莉を傷付けているとは気が付いてもいない。
「あ、朱莉さん……? 本当にそれでいいのか……?」琢磨は驚いて朱莉を見つめた。「はい。当然ですよね。明日香さんが産んだ子供は私が産んだことにするわけですから」「ありがとう、朱莉さん。話が早くて助かるよ。それと念の為にこれからは服装も気を遣って貰えないかな? 明日香のお腹の大きさと見比べて大差ないように何か工夫をして貰えるとより一層助かるんだが……」翔は申し訳なさそうに言う。「ば、馬鹿言うな。翔……」琢磨は怒りに声を震わせた。朱莉は俯いて、ぎゅっとスカートを握りしめていたが、顔を上げた。「はい。分かりました。何とかやってみますね」「翔! 俺はそんなの認めないからな!? 朱莉さんに妊婦の真似をさせるなんて!」「写真が!」すると翔が叫んだ。「「え……?」」朱莉と琢磨が同時に首を傾げる。「写真がいるんだよ。いざという時の為に……」「そうか、お前は自分と明日香ちゃんの身の保全の為に朱莉さんの妊婦姿の写真が欲しいと言うんだな?」琢磨は冷たい声で言う。「ああ。それだけじゃない。世間の目もあるだろう? これは、朱莉さんの為でもあるんだ」翔の言葉に朱莉が反応した。「私の……為ですか?」「朱莉さん! こいつの言葉に耳を貸す必要なんか無いぞ! 朱莉さんの為とか言って、本当は自分達のことしか考えていないくせに!」「少し黙っていてくれ! これは俺と明日香、そして朱莉さんの問題なんだ!」琢磨の怒鳴り声に、翔が吐き捨てるように言った。「な、何だって……?」(こいつ……自分で何言ってるのか分かってるのか!?)琢磨はこぶしを握り締めながら翔を見た。「そう、これは……朱莉さんに取ってのビジネスだ」「ビジネス……」朱莉は小さく呟いた。「ああ、世間を騙す為には完璧にしないといけない。手を抜いたら駄目なんだ。いいかい、考えてもみるんだ。いきなり今の体型で子供を産みましたと言って誰が信じる? 世間の目を欺くには偽装が必要なんだよ」「偽装……ですか?」朱莉は一瞬悲し気な顔で目を伏せた。「分かりました。仰るとおりにいたします」「朱莉さん!」琢磨は朱莉の肩に両手を置いた。「何故だ!? 何故そこまでこいつの言う事を聞くんだよ!」「け、契約妻……だからです」「琢磨、お前がいると話しが進まない。席を外してくれ」翔は琢磨に視線を移す。「断るっ!!
航と琢磨は互いにエントランスで睨み合っていた。朱莉の姿がいなくなると最初に口を開いたのは琢磨の方だった。「名前は聞かされていなかったけど君なんだろう? 興信所の調査員で、仕事の為に沖縄に来て朱莉さんと知り合って、同居していたって言うのは」「ああ、そうさ。朱莉、あんたに俺のこと話していたんだな?」航はニヤリと笑った。「どうやらお前は相当口が悪いみたいだな? だったらこちらも遠慮するのはもうやめるか」「へえ? あんたは京極とはタイプが違うんだな?」「何? 京極のことを知ってるのか?」「その反応からするとあんたも京極のことを良くは思っていないようだな?」琢磨は航の口ぶりから警戒心をあらわにした。「お前一体どこまで知ってるんだ? 興信所の調査員だって言ってたな? ひょっとして朱莉さんと知り合ったのも俺達絡みの件でか?」「へえ? その口ぶりだと心当たりがありそうだな? だが俺がそんなこと話すと思うのか? 仮にも俺は調査員だからな」航は挑発をやめない。そもそも朱莉と翔の偽装結婚のきっかけを作った琢磨が憎くて堪らなかった。(九条の奴が朱莉をあんな奴に紹介さえしなければ……)そう思うと琢磨に対する怒りがどうにも抑えられない。琢磨も初めの内は何故自分が航から敵意のこもった目で睨まれるのか見当がつかなかったが、調査員と言うことを考えれば、今迄の経緯を全て知ってるかもしれないと気付いた。(ここで話をするのはまずいな……)「おい、どうした? 急に黙って」航は怪訝そうな顔を見せた。「取りあえず……ここで話をするのは色々とまずい」「あ、ああ。言われてみればそうだな」航も辺りを見渡しながら、京極に言われた言葉を思い出した。「あまり遅くなると朱莉さんが心配する。取りあえず話は後にしよう。もし時間があるなら朱莉さんの手料理を食べた後場所を変えて話をしないか?」琢磨は航に提案した。「ああ。それでいいぜ。あんたには言いたいことが山ほどあるからな」航の言葉に、琢磨は不敵な笑みを浮かべる。「ふ~ん。どんな話が聞けるかそれは楽しみだ」そして2人の男は互いを見つめ……「「取りあえず荷物を降ろすか」」声を揃えた――****「航君と九条さん、遅いな……」料理を作りながら朱莉はソワソワしていた。「喧嘩とかしていたらどうしよう……。迎えに行ってみよう
琢磨は雨に打たれながら、朱莉と航が抱き合ている姿を呆然と見ていた。(誰なんだ……? あの男……航君と呼んでいたけど、まさか朱莉さんが沖縄で同居していた男なのか?)気付けば琢磨は歯を食いしばり、両手を強く握りしめていた。そして一度自分を落ち着かせる為に深呼吸すると、2人に近寄って声をかけた。「朱莉さん。その人は誰だい?」すると、その時航は初めて朱莉から離れて顔を上げ、琢磨の顔を見ると表情を変えた。「あ……あんたは九条琢磨……」(何? この男は俺のことを知っているのか?)そこで琢磨は尋ねた。「君は何故俺のことを知っているんだい?」すると航は言った。「そんなのは当たり前だろう? 自分がどれだけ有名人か分かっていないのか? 元鳴海グループの副社長の秘書。そして今は【ラージウェアハウス】の若き社長だからな」「そうか……。それで君は?」琢磨はイラついた様子で航を見た。航は先ほどからピタリと朱莉に張り付いて離れない。それがどうにも気に入らなかった。「あの、九条さん。彼は……」朱莉は琢磨のいつもとは違う様子に気付き、口を開きかけた所を航が止めた。「いいよ、朱莉。俺から自己紹介するから」その言葉を聞き、琢磨は眉が上がった。(朱莉……? 朱莉さんのことを呼び捨てにしているのか!? どう見ても朱莉さんよりは年下に見えるこの男は……)「俺は安西航。仕事で沖縄へ行った時に朱莉と知り合って1週間程あのマンションで同居させて貰っていたんだ。貴方ですよね? 朱莉の為にあのマンションを選んでくれたのは。2LDKだったからお陰で助かりましたよ」何処か挑発的に言う航。腹の中は怒りで煮えたぎっていた。(くそ……っ! この男が朱莉を鳴海翔に紹介しなければ朱莉はこんな目に遭う事は無かったのに……! それにしても悔しいが、顔は確かにいいな……)琢磨は何故航がこれ程自分を睨み付けているのか見当がつかなかった。(ひょっとしてこの男は朱莉さんのことが好きだから俺を目の敵にしてるのか?)一方、困ってしまったのは朱莉の方だ。まさか今迄音信不通だった航が突然自分の住んでいる億ションに現れるとは夢にも思っていなかったからだ。航とは話がしたいと思っていたので朱莉は提案した。「あの……取りあえず中へ入りませんか? 食事を用意するので」すると航は笑顔になった。「いいのか? 朱
「翔さん、落ち着いて下さい。医者の話では出産と過呼吸のショックで一時的に記憶が抜け落ちただけかもしれないと言っていたではありませんか。それに対処法としてむやみに記憶を呼び起こそうとする行為もしてはいけないと言われましたよね?」「ああ……だから俺は何も言わず我慢しているんだ……」「翔さん。取りあえず今は待つしかありません。時がやがて解決へ導いてくれる事を信じるしかありません」やがて、2人は一つの部屋の前で足を止めた。この部屋に明日香の目を胡麻化す為に臨時で雇った蓮の母親役の日本人女子大生と、日本人ベビーシッター。そして生れて間もない蓮が宿泊している。 翔は深呼吸すると、部屋のドアをノックした。すると、程なくしてドアが開かれ、ベビーシッターの女性が現れた。「鳴海様、お待ちしておりました」「蓮の様子はどうだい?」「良くお休みになられていますよ。どうぞ中へお入りください」促されて翔と姫宮は部屋の中へ入ると、そこには翔が雇った蓮の母親役の女子大生がいない。「ん? 例の女子大生は何処へ行ったんだ?」するとシッターの女性が説明した。「彼女は買い物へ行きましたよ。アメリカ土産を持って東京へ戻ると言って、買い物に出かけられました。それにしても随分派手な母親役を選びましたね?」「仕方なかったのです。急な話でしたから。それより蓮君はどちらにいるのですか?」姫宮はシッターの女性の言葉を気にもせず、尋ねた。「ええ。こちらで良く眠っておられますよ」案内されたベビーベッドには生後9日目の新生児が眠っている。「まあ……何て可愛いのでしょう」姫宮は頬を染めて蓮を見つめている。「あ、ああ……。確かに可愛いな……」翔は蓮を見ながら思った。(目元と口元は特に明日香に似ているな)「残念だったよ、起きていれば抱き上げることが出来たんだけどな。帰国するともうそれもかなわなくなる」すると姫宮が言った。「いえ、そんなことはありません。帰国した後は朱莉さんの元へ会いに行けばいいのですから」「え? 姫宮さん?」翔が怪訝そうな顔を見せると、姫宮は、一種焦った顔をみせた。「いえ、何でもありません。今の話は忘れてください」「あ、ああ……。それじゃ蓮の事をよろしく頼む」翔がシッターの女性に言うと、彼女は驚いた顔を見せた。「え? もう行かれるのですか?」「ああ。実はこ
アメリカ—— 明日いよいよ翔たちは日本へ帰国する。翔は自分が滞在しているホテルに明日香を連れ帰り、荷造りの準備をしていた。その一方、未だに自分が27歳の女性だと言うことを信用しない明日香は鏡の前に座り、イライラしながら自分の顔を眺めている。「全く……どういうことなの? こんなに自分の顔が老けてしまったなんて……」それを聞いた翔は声をかける。「何言ってるんだ、明日香。お前はちっとも老けていないよ。いつもどおりに綺麗な明日香だ」すると……。「ちょっと! 何言ってるのよ、翔! 自分迄老け込んで、とうとう頭もやられてしまったんじゃないの? 今迄そんなこと私に言ったこと無かったじゃない。大体おかしいわよ? 私が病院で目を覚ました時から妙にベタベタしてくるし……気味が悪いわ。もしかして私に気があるの? 言っておくけど仮にも血が繋がらなくたって私と翔は兄と妹って立場なんだから! 私に対して変な気を絶対に起こさないでね!?」明日香は自分の身体を守るように抱きかかえ、翔を睨み付けた。「あ、ああ。勿論だ、明日香。俺とお前は兄と妹なんだから……そんなことあるはず無いだろう?」苦笑する翔。「ふ~ん……翔の言葉、信用してもいいのね?」「ああ、勿論さ」「だったらこの部屋は私1人で借りるからね! 翔は別の部屋を借りてきてちょうだい。 あ、でも姫宮さんは別にいて貰っても構わないけど?」明日香は部屋で書類を眺めていた姫宮に声をかける。「はい、ありがとうございます」姫宮は明日香に丁寧に挨拶をした。「それでは翔さん、別の部屋の宿泊手続きを取りにフロントへ御一緒させていただきます。明日香さん。明日は日本へ帰国されるので今はお身体をお安め下さい」姫宮は一礼すると、翔に声をかけた。「それでは参りましょう。翔さん」「あ、ああ。そうだな。それじゃ明日香、まだ本調子じゃないんだからゆっくり休んでるんだぞ?」部屋を出る際に翔は明日香に声をかけた。「大丈夫、分かってるわよ。自分でも何だかおかしいと思ってるのよ。急に老け込んでしまったし……大体私は何で病院にいたの? 交通事故? それとも大病? そうでなければ身体があんな風になるはず無いもの……」明日香は頭を押さえながらブツブツ呟く「ならベッドで横になっていた方がいいな」「そうね……。そうさせて貰うわ」返事をすると
琢磨に礼を言われ、朱莉は恐縮した。「い、いえ。お礼を言われるほどのことはしていませんから」「朱莉さん、そろそろ17時になる。折角だから何処かで食事でもして帰らないかい?」「あ、それならもし九条さんさえよろしければ、うちに来ませんか? あまり大した食事はご用意出来ないかもしれませんが、なにか作りますよ?」朱莉の提案に琢磨は目を輝かせた。「え?いいのかい?」「はい、勿論です。あ……でもそれだと九条さんの相手の女性の方に悪いかもしれませんね……」「え?」その言葉に、一瞬琢磨は固まる。(い、今……朱莉さん何て言ったんだ……?)「朱莉さん……ひょっとして俺に彼女でもいると思ってるのかい?」琢磨はコーヒーカップを置いた。「え? いらっしゃらないんですか?」朱莉は不思議そうに首を傾げた。「い、いや。普通に考えてみれば彼女がいる男が別の女性を食事に誘ったり、こうして買い物について来るような真似はしないと思わないかい?」「言われてみれば確かにそうですね。変なことを言ってすみませんでした」朱莉が照れたように謝るので琢磨は真剣な顔で尋ねた。「朱莉さん、何故俺に彼女がいると思ったの?」「え? それは九条さんが素敵な男性だからです。普通誰でも恋人がいると思うのでは無いですか?」「あ、朱莉さん……」(そんな風に言ってくれるってことは……朱莉さんも俺のことをそう言う目で見てくれているってことなんだよな? だが……これは喜ぶべきことなのだろうか……?)琢磨は複雑な心境でカフェ・ラテを飲む朱莉を見つめた。すると琢磨の視線に気づく朱莉。「九条さんは何か好き嫌いとかはありますか?」「いや、俺は好き嫌いは無いよ。何でも食べるから大丈夫だよ」それを聞いた朱莉は嬉しそうに笑った。「九条さんも好き嫌い無いんですね。航君みたい……」その名前を琢磨は聞き逃さなかった。「航君?」「あ、いけない! すみません、九条さん、変なことを言ってしまいました。そ、それじゃもう行きませんか?」朱莉は慌てて、まるで胡麻化すように席を立ちあがった。「あ、ああ。そうだね。行こうか?」琢磨も何事も無かったかの様に立ち上がったが、心は穏やかでは無かった。(航君……? 一体誰のことなんだろう? まさかその人物が朱莉さんと沖縄で同居していた男なのか?それにしても君付けで呼ぶなん
14時―― 朱莉がエントランス前に行くと、すでに琢磨が億ションの前に車を停めて待っていた。「お待たせしてすみません。九条さん、もういらしてたんですね」朱莉は慌てて頭を下げた。「いや、そんなことはないよ。だってまだ約束時間の5分以上前だからね」琢磨は笑顔で答えた。本当はまた今日も朱莉に会えるのが嬉しくて、今から15分以上も前にここに到着していたことは朱莉には内緒である。「それじゃ、乗って。朱莉さん」琢磨は助手席のドアを開けた。「はい、ありがとうございます」朱莉が助手席に座ると、琢磨も乗り込んだ。シートベルトを締めてハンドルを握ると早速朱莉に尋ねた。「朱莉さんは何処へ行こうとしていたんだっけ?」「はい。赤ちゃんの為に何か素敵なCDでも買いに行こうと思っていたんです。それとまだ買い足したいベビー用品もあるんです」「よし、それじゃ大型店舗のある店へ行ってみよう」「はい、お願いします」琢磨はアクセルを踏んだ――**** それから約3時間後――朱莉の買い物全てが終了し、車に荷物を積み込んだ2人はカフェでコーヒーを飲みに来ていた。「思った以上に買い物に時間がかかってしまったね」「すみません。九条さん……私のせいで」朱莉が申し訳なさそうに頭を下げた。「い、いや。そう意味で言ったんじゃないんだ。まさか粉ミルクだけでもあんなに色々な種類があるとは思わなかったんだよ」「本当ですね。取りあえず、どんなのが良いか分からなくて何種類も買ってしまいましたけど口に合う、合わないってあるんでしょうかね?」「う~ん……どうなんだろう。俺にはさっぱり分からないなあ……」琢磨は珈琲を口にした。「そう言えば、すっかり忘れていましたけど、九条さんの会社はインターネット通販会社でしたね?」「い、いや。俺の会社と言われると少し御幣を感じるけど……まあそうだね」「当然ベビー用品も扱っていますよね?」「うん、そうだね」「それでは今度からはベビー用品は九条さんの会社で利用させていただきます」「ありがとう。確かに新生児がいると母親は買い物も中々自由に行く事が難しいかもね。……よし、今度の企画会議でベビー用品のコンテンツをもっと広げるように提案してみるか……」琢磨は仕事モードの顔に変わる。「ついでに赤ちゃん用の音楽CDもあるといいですね。出来れば視聴も試せ
朝食を食べ終わり、片付けをしていると今度は朱莉の個人用スマホに電話がかかってきた。それは琢磨からであった。昨夜琢磨と互いのプライベートな電話番号とメールアドレスを交換したのである。「はい、もしもし」『おはよう、朱莉さん。翔から何か連絡はあったかい?』「はい、ありました。突然ですけど明日帰国してくるそうですね」『ああ、そうなんだ。俺の所にもそう言って来たよ。それで明日香ちゃんの為に俺にも空港に来てくれと言ってきたんだ。……当然朱莉さんは行くんだろう?』「はい、勿論行きます」『車で行くんだよね?』「はい、九条さんも車で行くのですね」『それが聞いてくれよ。翔から言われたんだ。車で来て欲しいけど、俺に運転しないでくれと言ってるんだ。仕方ないから帰りだけ代行運転手を頼んだんだよ。全く……いつまでも俺のことを自分の秘書扱いして……!』苦々し気に言う琢磨。それを聞いて朱莉は思った。(だけど九条さんも人がいいのよね。何だかんだ言っても、いつも翔先輩の言うことを聞いてあげているんだから)朱莉の思う通り、琢磨自身が未だに自分が翔の秘書の様な感覚が抜けきっていないのも事実である。それ故、多少無理難題を押し付けられても、つい言いなりになってしまうことに琢磨自身は気が付いていなかった。「でも、どうしてなんでしょうね? 九条さんに運転をさせないなんて」朱莉は不思議に思って尋ねた。『それはね、全て明日香ちゃんの為さ。明日香ちゃんは自分がまだ高校2年生だと思っているんだ。その状態で俺が車を運転する訳にはいかないんだろう。全く……せめて明日香ちゃんが自分のことを高3だと思ってくれていれば、在学中に免許を取ったと説明して運転出来たのに……』琢磨のその話がおかしくて、朱莉はクスリと笑ってしまった。「でもその場に私が現れたら、きっと変に思われますよね? 明日香さんには私のこと何て説明しているのでしょう?」『……』何故かそこで一度琢磨の声が途切れた。「どうしたのですか? 九条さん」『朱莉さん……君は何も聞かされていないのかい?』「え……?」『くそ! 翔の奴め……いつもいつも肝心なことを朱莉さんに説明しないで……!』「え? どういうことですか?」(何だろう……何か嫌な胸騒ぎがする)『俺も今朝聞いたばかりなんだよ。翔は現地で臨時にアルバイトとして女子大生と
「それじゃ、朱莉さん。次は翔から何か言ってくるかもしれないけど、くれぐれもアイツの滅茶苦茶な要求には答えたら駄目だからな?」タクシーに乗り込む直前の朱莉に琢磨は念を押した。「九条さんは随分心配性なんですね。私なら大丈夫ですから」朱莉は笑みを浮かべた。「もし翔から契約内容を変更したいと言ってきたら……そうだな。まずは俺に相談してから決めると返事をすればいい」するとタクシー運転手が話しかけてきた。「すみません。後が詰まってるので……出発させて貰いたいのですが……」「あ! すみません!」琢磨は慌ててタクシーから離れると、朱莉が乗り込んだ。車内で朱莉が琢磨に頭を下げる姿が見えたので、琢磨は手を振るとタクシーは走り去って行った。「ふう……」タクシーの後姿を見届けると、琢磨はスマホを取り出して、電話をかけた。「もしもし……はい。そうです。今別れた所です。……ええ。きちんと伝えましたよ。……後はお任せします。え? ……いいのかって? ……あなたなら何とかしてくれるでしょう? それだけの力があるのですから。……失礼します」そして電話を切ると、夜空を見上げた。「雨になりそうだな……」**** 翌朝――6時朱莉はベッドの中で目を覚ました。昨夜は琢磨から聞いた翔の伝言で頭がいっぱいで、まともに眠ることが出来なかった。寝不足でぼんやりする頭で起きて、着替えをするとカーテンを開けた。「あ……雨……。どうりで薄暗いと思った……」今日は朱莉の車が沖縄から届く日になっている。車が届いたら朱莉は新生児に効かせる為のCDを買いに行こうと思っていた。これから複雑な環境の中で育っていく子供だ。せめて綺麗な音楽に触れて、情操教育を養ってあげたいと朱莉は考えていた。洗濯物を回しながら朝食の準備をしていると、翔との連絡用のスマホに着信を知らせる音楽が鳴った。(まさか、翔先輩!?)朱莉はすぐに料理の手を止め、スマホを見るとやはり翔からのメッセージだった。今朝は一体どんな内容が書かれているのだろう? 翔からの連絡は嬉しさの反面、怖さも感じる。好きな人からの連絡なのだから嬉しい気持ちは確かにあるのだが問題はその中身である。大抵翔からのメールは朱莉の心を深く傷つける内容が殆どを占めている。(やっぱり契約内容の変更についてなのかなあ……)朱莉はスマホをタップした。『おは
「本当はこんなこと、朱莉さんに言いたくは無かった。だが翔が仮に今の話を直接朱莉さんに話したとしたら? 恐らく翔のことだ。きっと再び朱莉さんを傷付けるような言い方をして、挙句の果てに、これは命令だとか、ビジネスだ等と言って強引に再契約を結ばせるつもりに違いない。だがそんなこと、絶対に俺はさせない。無期限に朱莉さんを縛り付けるなんて絶対にあってはいけないんだ」琢磨は顔を歪めた。(え……無期限に明日香さんの子供の面倒を? それってつまり偽装婚も無期限ってこと……?)なので朱莉は琢磨に尋ねた。「あの……それってつまり翔さんは私との偽装結婚を無期限にする……ということでもあるのですよね?」(そうしたら、私……もう少しだけ翔先輩と関わっていけるってことなのかな?)しかし、次の瞬間朱莉の淡い期待は打ち砕かれることになる。「いや、翔の言いたいことはそうじゃないんだ。当初の予定通り偽装婚は残り3年半だけども子育てに関しては明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで続けて貰いたいってことなんだよ」「え……?」「つまり、翔は3年半後には契約通りに朱莉さんと離婚して、子供だけは朱莉さんに引き続き面倒を見させる。しかも明日香ちゃんが記憶を取り戻すまで、無期限にだ。こんな虫のいい話あり得ると思うかい?」「……」朱莉はすっかり気落ちしてしまった。(やっぱり……ほんの少しでも翔先輩から愛情を分けて貰うのは所詮叶わないことなの? でも……)「九条さん」朱莉は顔を上げた。「何だい」「私、明日香さんと翔さんの赤ちゃんを今からお迎えするの、本当に楽しみにしてるんです。例え自分が産んだ子供で無くても、可愛い赤ちゃんとあの部屋で一緒に暮らすことが待ちきれなくて……」「朱莉さん……」「九条さん。もし、子供が3歳になっても明日香さんが記憶を取り戻せなかった場合は、翔さんは私に引き続き子供を育てて欲しいって言ってるわけですよね? それって……翔さんは記憶の戻っていない明日香さんにお子さんを会わせてしまった場合、お互いにとって精神面に悪影響が出るのではと苦慮して私に預かって貰いたいと思っているのではないでしょうか? だって、考えても見てください。ただでさえ10年分の記憶が抜けて自分は高校生だと信じて疑わない明日香さんに貴女の産んだ子供ですと言って対面させた場合、明日香さんが正常でいられると